投稿日時: 2015/01/08
図書館管理者
この碧南地方でも、昭和17年(1942年)ごろまで、大浜地区の同好者によって、三河万歳が正月にいろいろな所で唱舞されていたそうです。
三河万歳は、昔から全国的にも広く知られており、その起こりは、室町時代の中ごろ、熱田の薬師寺住職玄海が、応仁の乱の難を逃れ、今の矢作西本郷に住むようになり、この地方の人々に昇平安民を願って、鼓を基調とした音曲と語りで唱舞・巡回をし、それを人々が万歳と称したことに始まったと言われています。
また、一説には、実相寺の応通大師が宋の国から逃れてきた帰化人たちの生計のため、祝詞を唱え、年始に演じ広めたと伝わっていることからも、人々の生計の手段としての万歳唱舞でもあったようです。
ともあれ、正月に人々の幸せと豊作を祈るおもしろい万歳として、もてはやされていたようです。特に三河万歳は、徳川発祥の地の技芸ということで、正月には、岡崎城はもちろんのこと、江戸城までも万歳師たちは大紋・鳥帽子・帯刀姿で、その出入りを許されていたと言われています。
その三河万歳が、この地方にも、正月には門付け万歳として、かなりの万歳師たちが活躍をしていたそうです。大正から昭和の年代にかけて、そうした万歳を演じてこられた方の話では、毎年、寒に入るころになると、農漁業の仕事も暇になるので、その間、グループで、主として関東方面(伊豆・千葉・茨城)へ万歳の巡業に出向いたそうです。正月の3が日は御殿万歳を、あとは三曲万歳とか芝居をしたりして、3月の接待弘法までには帰って来るというふうだったそうです。そうした人たちは、10歳前後から師匠といわれる人に付いて万歳の手ほどきを受け、15、16歳から結婚する年ごろまで、師匠といっしょに3か月間ほど、万歳巡業に出向いたそうです。
その万歳も、太平洋戦争の激化に伴い絶えてしまったということです。
碧南市広報2001年9月11号掲載