No.15 三宅社

投稿日時: 2014/12/26 図書館管理者


 伏見町1丁目に伏見屋の稲荷神社があり、その境内に三宅又兵衛をまつる「三宅社」と彼の石碑があります。
 その昔、稲荷神社の西方に平七山の上、その北に中山、城山、天目山、神有、更に東に鷲塚へと台地が続き、その崖下まで波が打ち寄せる海浜でした。この海を東浦と言い、大浜の西の海は西浦、鷲塚の北から西端まで入江となり、この海を北浦と言いました。
 慶長10年(1605年)に矢作川の米津放流が始まり、矢作新川は本流となり、多量の土砂が東浦の海へ流入し始めました。こうして数10年の間には、東浦の海浜は次第に土砂が堆積して遠浅になってきました。島だった鷲塚は陸続きの半島になり、正保元年(1644年)には、米津と鷲塚間に堤防が築かれました。そのために北浦は淡水化し、湖沼化して現在の油ケ淵となりました。また、鷲塚から上橋の間に水路をつくり、油ケ淵の水を東浦に排水しました。
 寛文年間、三宅又兵衛はこの油ケ淵の沿岸に多くの新田を築きました。三宅又兵衛は京都伏見の出身で、江戸の萱場町で米穀商を営み屋号を伏見屋と言い、伏見屋又兵衛とも言われ、大きな財力を持っていました。また祖先が家康から三都に地を賜って宅を建てたので三宅とも言い、三宅又兵衛とも呼ばれていました。一方、矢作川の土砂の堆積は多く、東浦一帯は遠浅で砂州もできていたので、寛文6年(1666年)に又兵衛は幕府の許可を得て莫大な私費を投じ、又九から締切に至る海の中に延長1,358間の築堤の難工事を完成し、海表の新田を開拓しました。以来、彼の伏見屋の屋号をこの新田の地名に当て、伏見屋新田と呼んできました。こうして又兵衛は元禄2年(1689年)に没しました。
 明治16年(1883年)に三宅又兵衛の石碑を建て、新田開拓者の功績をたたえました。また、昭和34年(1959年)に三宅又兵衛碑と並んで三宅社を建立しました。



碧南市広報2002年6月11日号掲載