投稿日時: 2015/01/08
図書館管理者
明治21年(1888年)6月、鶴ケ崎の岡本利助は字那智(上の宮熊野神社の南)に、衣浦造船所を創立した。西洋型帆船を主に建造し、従業員は90人ほどいたといわれる。
この造船所は亀崎の船主たちが、株式組織で経営を始め、利助は事務担当者として参加していた。ところが、会社の経営が不振となり、株主が手を引いたので、利助が独力で経営に当たることとなった。利助は、養子の与一郎とともに造船業に励んだが、47歳で没したので、その後は与一郎が経営した。
このころは、帆船から次第に蒸気船に変わってきたこと、また造船所の規模も、鳥羽造船所などには遠く及ばないことなどにより、与一郎は努力したが、その経営は思うようにならなかった。このような折、不幸にも与一郎は病気になったので、明治37年(1904年)ごろ、遂に廃業した。
その後、長い間ドックの跡が見られ、かつての造船所の面影をとどめていた。ところが、日華事変のころから、ここに造船所が出来て、戦時中には300トン級の木造船が建造されて活気に満ちていた。
戦後この造船所も廃止されて、今では往時をしのぶよすがは何一つない。
碧南市広報2001年7月11日号掲載