投稿日時: 2014/12/26
図書館管理者
刈谷出身の代議士、三浦逸平氏が発起人となって「碧海軽便鉄道株式会社」が計画されました。南は大浜を起点とし、刈谷で東海道線に接続するというもので、大正3年に「三河鉄道株式会社」という名称に改められ、開通しました。そして、初代2代を経て、社長に幡豆郡一色町松木島出身で蜂印葡萄酒で実業界の有名人であった神谷傳兵衛氏を迎えて、社運も軌道に乗りました。
当初は、大浜港駅から新川町、高浜港、吉浜、小垣江、刈谷町、刈谷新の7駅と北新川に停留所を置くことになりました。駅名は国営、民営を問わず、全国に同名の駅は禁止されていたので、大浜の大浜港(今の碧南駅)はよかったのですが、高浜に港の字をつけるのは、当時としては駅の西方に衣ケ浦の入江がありましたが、無理な苦策でした。刈谷駅は今でこそJRと一体になっていますが、当初は東海道線に刈谷駅があるので、そこに隣接して刈谷新という駅名にし、今の刈谷市駅は刈谷町でした。当時は、大浜・刈谷間14.5㎞を走るのに1時間以上を要しました。
その後、新須磨海水浴場が宣伝されて、夏だけの「新須磨臨時停車場」ができ、愛知電気鉄道(通称アイデン、今の名鉄本線)に接続するため、刈谷新から知立までが新設され、その後、高浜町からの要望で三河高浜駅が増設されました。
さらに北へは三河八橋、若林、竹村、土橋、上挙母、挙母と延長されました。それと同時に、南は大浜港から玉津浦、棚尾、三河旭と延長され、矢作川に鉄橋がかけられ、中畑、平坂、一色と延長されました。松木島は社長の出身地なので駅名は「神谷」とされ、吉田を経て、蒲郡で東海道線に接続されました。
昭和3年に北は西中金、南は三河吉田(今の吉良吉田駅)まで、昭和11年には蒲郡までが完成しました。三河鉄道は昭和16年、三河鉄道10株に名鉄9株の割合で名古屋鉄道に吸収合併され、名古屋鉄道三河線となりました。
碧南市広報2002年2月11日号掲載