No.12 鷲塚騒動(前編)

投稿日時: 2014/12/26 図書館管理者


 鷲塚騒動とは、明治4年(1871年)に起こった浄土真宗僧侶・門徒が藩の政策を不満とし、役人側と衝突して役人一人を殺害した事件で、大浜騒動、菊間藩事件とも言います。
 明治新政府の政策に沿った藩政改革を断行したのは、明治3年に本藩から赴任した服部純少参事でした。彼は村法改正、家格の設定、学校制度の創設、宗教面の改革などを次々と実行しました。
 特に宗教面では、政府の神道国教化・神仏分離の政策に沿って「天拝日拝」や神前念仏の停止など神道色を強め、寺院統廃合も推進しようとしました。そして、この宣布役である教諭使に棚尾光輪寺の高木賢立、大浜称名寺の藤井説冏の2人が任命されました。そして、管内の村々を巡回し、神道の在り方と作法や仏教との混交を避けることなどを指導しました。賢立は浄土真宗僧侶であり、弥陀一仏・専修念仏の宗旨であるため、後に反感を買うことになります。
 明治4年2月15日、管内の僧侶を集め、壇家数に応じた寺院統廃合の下問をしますが、東本願寺の僧侶は、このような重大な案件は即答できないとして、藩に関わりのある西方寺・光輪寺に日延べ申し入れを依頼しました。しかし、すでに西方寺100軒以下、光輪寺10軒以下合併可と即答していました。
 この菊間藩の事情を知った東本願寺の三河護法会(総監専修坊星川法沢、幹事蓮泉寺石川台嶺)では、何度か協議を重ね、三河一の大坊である西方寺へその態度の真意を尋ねるために、護法会員の中から同志を募りました。
 3月8日夜、暮戸の会所において、石川台嶺の意を汲んだ30余人の僧侶は血判し、勤行の後、大浜へ向かいました。翌朝、米津竜讃寺に到着したときには、多数の門徒が同道を申し出、「大浜にヤソ(当時のキリスト教の呼び方)が出た」というデマが飛び交い、竹槍を作る者も現れました。台嶺は一同に目的を告げ、粗暴な振舞いのないよう諭しました。


碧南市広報2002年3月11日号掲載