投稿日時: 2014/12/26
図書館管理者
油ケ淵は当時入江になっていて北浦と呼ばれていました。この油ケ淵の西端の岸に漂着した少年を、杉浦四郎左衛門義勝が屋敷に連れて来ました。食事を与えようとして、自分は東向きに膳を置き、少年の膳は西向きに置きました。しかし、この少年は自分で膳を東向きに据え変えて、主人と並んで食事をしました。
成長するにつれて、どうしても僧侶になりたいと言うので、佐々木の上宮寺に送り、如光と号させました。次第に立派な体格の僧となり、京都にのぼり、蓮如の弟子となりました。応仁の乱の長期化と、僧兵の圧迫を避けて、都を離れようとした蓮如を、自分の在所の西端へ案内して来ました。蓮如は杉浦義勝の武家屋敷で説教をし、また、ここを根拠地として布教して歩きました。
この武家屋敷に、西端の人々が知らない婦人が上品な薄物をまとって、つつましく蓮如の説教を聞きに来ていました。不思議に思って里人が尋ねると「私は南海の底に住んでいる龍神です。」と答えました。そうしたことがあって以来、この婦人は再び里人の前に現れることはありませんでした。そのうちに里人たちは「あのつつましい上品な婦人は、如光坊さんのお母さんだ。」とささやくようになりました。
慶長10年(1605年)に碧海台地の一部を開削して矢作川の本流を通したので、入江の一部が汽水湖となり「油ケ淵」と呼ばれるようになりました。周囲7.8㎞、最深部7m、平均水深2.5mの油ケ淵は「蓮如池」とも呼ばれるようになりました。
なお、前記義勝の武家屋敷は、上屋敷に移されて唯願寺(のちに栄願寺)と名付けられ、武家屋敷跡に一宇を建立して「応仁寺」と称するようになりました。後世山号を松光山と称し、夫婦松や環状松などの老木がありました。
碧南市広報 2001年11月11日号掲載