No.13 鷲塚騒動(後編)

投稿日時: 2014/12/26 図書館管理者


  鷲塚へ入ったのはその日の午後で、折悪く雨模様となり、僧侶は池端蓮成寺に入り、人々も村々の寺へ入りました。実は、一団が鷲塚へ入ろうとしたとき、蓮成寺住職一順は、多人数で領内に入ることを制止し、藩役人に知らせるまで待つよう台嶺らと掛け合いましたが、雨やどりのため自然と村へ入る形となりました。
 大浜出張所から杉山権少属始め5人の役人が鷲塚庄屋片山俊次郎方へ出張し、僧侶側の代表者と会見しました。彼らは、菊間藩の神道的な強要と寺院統廃合の政策を見合わすよう要求しましたが、平行線のまま、いたずらに時間を要したため、続々と村へ集まった人々はいらだち始めました。誰ともなく蓮成寺の鐘を打ち鳴らす者が現れ、人々の興奮の度は増し、庄屋宅へ打ち寄せ、塀越しに投石を始めました。役人は身の危険を感じてその場を脱し、大浜へ応援を求めるべく帰途につきました。群衆の投石、竹槍攻撃はすさまじく、役人は抜刀して道を急ぎましたが、道がぬかるんでいたため、5人のうち一番後ろにいた藤岡薫が転倒してしまいました。「ヤソ(当時のキリスト教の呼び方)が倒れたぞ!」の罵声のなか、興奮した人々にめった突きにされ、首を切られ、弱冠20歳の青年役人は殺害されました。
 首級は蓮成寺に運び込まれましたが、やがて矢作川に投げ込まれたそうです。翌日以降、西尾藩や重原藩からも応援が着き、騒動は収拾しました。
 結果的に石川台嶺始め関係した僧侶や、役人殺害の嫌疑をかけられた人々が捕らえられ、その年の年末裁判の結果、台嶺と俗人の榊原喜代七は死罪、そのほか多くの人々が罪人となりました。
 しかしこの事件は、単に維新の混乱期に一地方で起きた騒乱というに止まらず、宗教・思想に対する命がけの抵抗、功利や打算と無縁の真理の防衛(護法)の抵抗として歴史学のうえでも高く評価されています。後の時代に、国家権力による思想や宗教への介入がいかに悲惨な結果を招くかは、歴史が証明しています。

碧南市広報2002年4月11日号掲載