投稿日時: 2014/12/26
図書館管理者
長田氏は、代々知多郡野間の内海に住む豪族でした。源義朝が平治の乱に破れ、平氏に追われ、郎党とともに尾張に逃れて、内海荘司忠致の家に寄りました。忠致とその子景致らは平氏に通じ、義朝を殺そうと兄親致に相談しました。親致はその不義を説きましたが、忠致は永暦元年(1160年)、義朝を家来に殺させました(野間の変)。
源平の争いが繰り広げられる中で、応保2年(1162年)親致は自分の身が危険だったので、夜ひそかに漁船に乗って逃げ、乳母初音の生まれた大浜郷棚尾に移り住みました。
親致の子仙千代白正は、源氏の勢いが盛んであったので、源氏の浪人として潜居していました。これから、この地を源氏というようになったと伝えられています。
仁安3年(1168年)9月、大浜郷洲崎へ大木が数本漂着しました。村民はこれを引き揚げようとしましたが動きませんでした。その大木は、夜々光を放ちました。驚いた村民は棚尾に潜居していた長田仙千代白正にこのことを告げにきました。白正は洲崎に赴き、大木を付近の小山に引き揚げさせました。最も大きな材木に「大一」の文字が記されていました。文字のところの切り口を開くと、そこから熊野権現と書かれてある宝剣が出てきました。白正は霊木だということを察し、神楽を奏して神子に伺わせたところ、「この材木を以って社壇を造営し、熊野三社大権現を勧請すべし。」との御託宣がありました。
これによって、古老や村里の人々と心を合わせ、材木を揚げ置いた場所に宮を造営し、材木から出た宝剣を御神体として熊野大権現を祀って氏神と仰ぎました。そして、長田白正は神主として奉祀することとなりました。これが仁安3年9月7日であったため、この日を縁日として毎年大祭を行うようになりました。このように、長田白正は大浜熊野大神社の創建に関与し、長田氏が下宮神官を世襲することになりました。
碧南市広報2002年1月11日号掲載