No.1 海を渡った手紙 加藤菊女の伝説

投稿日時: 2014/12/19 図書館管理者
 衣ヶ浦の白い波が打ちよせる大浜の海岸を、漁師がふたり歩いていました。ふたりが下の熊野神社まで来ると、若い武家の女に会いました。
 女の人が遠ざかると、若い方の漁師は感心したように言いました。
「奥方様は、おとももつれず、毎日ひとりでおまいりされておる。えらいもんだな。」
「一日も早く、奥方様の願いがかなえられるといいがな。」

 奥方様といわれた人は、大浜代官、加藤四郎左衛門の息子、友右衛門の嫁で、名前を菊といいました。菊は、尾張藩士、林治左衛門の娘で、二年前、友右衛門と結婚して、幸せにくらしていました。
 ところが、享保三年(1718)、中山の貞照院で事件がおこり、その責任をとって、代官の四郎左衛門は、伊豆大島へ流罪となりました。四郎左衛門は年を取っていたので、むすこの友右衛門が身代わりとなり、島送りになったのでした。
 友右衛門が流罪になってから、菊は、毎日、神社へおまりをして、夫の無事を祈っていたのです。菊は、神社の帰りに、「からかさ松」と呼ぶ大松がある岬へよく行き、伊豆大島にいちばん近い所に立ち、夫の無事を祈りました。
 その日、菊がお祈りしていたとき、一本の丸太がしおに乗り、南へと流れて行きました。丸太のゆくえを目で追っていた菊は、「この海は、夫のいる伊豆大島までつながっているわ。流れに乗れば着くかもしれない。」とつぶやくと、何事か決心したように急ぎ足で帰り始めました。
 その夜、菊は、おそくまでお経を写し、夫あてのお手紙を書きました。竹筒の中に写経と手紙を入れてから、文箱におさめ、油紙でていねいに包みました。
 あくる朝、菊は、その文箱を岸から海へ流しました。しおの流れを利用して、夫のもとに手紙を届けようと考えたのです。けれど、文箱は思うようにしおに乗らず、何度も失敗しました。それでも、菊はあきらめませんでした。
「海よ、波よ、心あるならこの文箱を、だんな様のもとにとどけておくれ。」と祈りを込めて、文箱を流しつづけました。
 流罪になって、七年の月日がたったある日、友右衛門は、小舟に乗って、海でつりをしていました。友右衛門は、無期刑の自分はやがて一人さびしく、島で死ぬのかと思うと、ふるさとの妻や両親がたまらなく恋しくなりました。
 糸をたれたまま、ぼんやりとしている友右衛門の舟に、小箱が近づいてきました。さおで前へおしてやると、少し遠ざかりましたが、次の波でまたもどってきました。「おかしな箱だな。」とつぶやき、拾い上げた友右衛門は「あぁ……」と声をあげました。油紙でいくえにも包まれた箱の中に竹筒があり、その中に写経と手紙が入っておりました。手紙には「加藤友右衛門妻菊」と、忘れもしない妻の名があったのです。
 遠州灘の見渡すかぎりの広い海。小さな小舟に乗った自分にとどいた手紙。なつかしい大浜の白い砂浜。手を合せて文箱を流す妻。老いたであろう父と母。手紙を持った友右衛門の手はふるえ、閉じたまぶたからは、なみだがこぼれ落ちました。
 島の役人から文箱の話を聞いた幕府は、菊の夫を思う心に打たれ、友右衛門の罪を許してやりました。そして、その年のくれ、友右衛門は無事、菊の待つ大浜へ帰って来たのでした。


参考資料:市民叢書『「碧南の民話』