No.3 十三塚のいわれ

投稿日時: 2014/12/19 図書館管理者
 三河と尾張の国が、たがいににらみあっていたころの話です。
 大浜は、三河方にあって、長田重元が守っていました。ところが、同じ大浜にあっても、尾張方に心をよせる者があり、大浜上の宮の祢宜、河合はそのひとりでした。
 あるとき、河合は長田重元が岡崎へ出かけていることを聞くと、「大浜をせめるのは今です。」と、信長へ知らせました。
 ところが、河合が信長に内通したのを知った長田重元は、夜のうちに家来をつれて、岡崎からもどり、そなえをかためて信長軍をまっていました。
 どどどど………と、信長の騎馬隊の一団が、音をたて、土けむりをまきあげて、大浜街道をせめこんできました。これが信長の初陣でしたから、そのいきおいは、あたりをけちらすほど、ものすごいものでした。
「信長がせめてきたぞ!」というさけびが村中にひびきわたると、待ちかまえていた大浜の兵たちは、いっせいに刀や槍をかまえて敵をむかえました。
 敵味方が入りみだれて、村中がひっくり返るようなはげしい戦が始まりました。人数の多い大浜軍は、たちまち信長軍をおし返してせめたてました。極楽寺(天王)のあたりまで行ったとき、松林の中にふせていた大浜軍がときの声をあげて、信長軍をとり囲んでしまいました。「これはまずい。」と思った信長は、あたりの民家や寺に火を放ち、家来に退却を命じると、馬にむちをあてて、一目散ににげました。にがすものかと追いかける大浜軍と、道場山のあたりでもはげしい戦をくり返しましたが、信長軍は、たくさんの死体を残して、とうとう退却してしまいました。
 それから四、五日たったあるばん、ひとりの百姓が北大浜からの帰り、戦のあった近くを通ったときのことでした。赤い火の玉が、まるで空中戦のように、上に下にもつれあいながら暗やみをとびかっていました。こわくなった百姓は、急いで家に帰ると、ふとんをかぶり、朝までふるえておりました。
 あくる日、百姓が「きのうのばん、おら、火の玉を見た。」と話すと、「おれも見た。」「おれも見た。」「おれも見た、赤い火の玉が十以上もとんでいた。」と、うわさは、いっぺんにひろがりました。
 このうわさが、いつしか長田重元の耳にもはいりました。重元は、戦のあとを見て回りました。最後の戦場になった道場山の松林にきてみると、討ち死にした敵兵の死がいが、野ざらしになっていました。
「このままでは成仏できまい。死んでしまえば敵も味方もない。わしらでとむらってやろう。」重元は、さっそく家来をよびよせ、穴を掘ってていねいに葬り、土をもって塚をつくりました。そして、お坊さんにお経をあげてもらい、ねんごろにとむらいました。
 それからは、だれも火の玉を見た、と言う人はありませんでした。塚は、みんなで十三ありました。後の人々は、この塚を「じゅうさづか」とか、「とみづか」とかいったそうです。


参考資料:市民叢書『碧南の民話』