300年ほどむかし、ごんえ橋の右岸のたかみに、権右の墓がありました。この墓は、新川を掘ったとき、工事のぎせいになった権右衛門という若者をとむらって、仲間の人たちがまつったものです。
そのころ、油ヶ淵は、大雨や台風がくるたびに湖の水があふれ、近くの田や畑をおし流していました。松江代官の烏山牛之助が、百姓の苦労を救うため、油ヶ淵の水を海に流す堀り割り工事を江戸幕府に願い出ました。そのゆるしがでたとき、工事をうけおったのは、伏見屋の屋号を持つ江戸の大商人三宅又兵衛でした。又兵衛は、城の石垣や、川の堤防の工事には、太左衛門という人を人夫頭として使っていました。太左衛門は、この掘り割り工事に、江戸から30人の人夫をつれてやってきました。
人夫の1人に権右とよばれるひとりの若者がいました。権右は、江戸の下町にある源兵衛長屋で、お母さんとふたりでくらしておりました。権右が小さいころお父さんは死に、それから、お母さんは、ひとりで近所の手伝いや、針仕事をして権右を育てました。ふたりのくらしは貧しく、権右は11歳になると、同じ長屋の太左衛門のところで、使い走りや手伝いをして、だちんをもらったり、お母さんの手助けをしたりしていました。権右が15歳のとき、お母さんがはやり病にかかり、急になくなってからは、太左衛門が家族のように何くれとなくめんどうを見てやっていました。
太左衛門は、大浜へくると、松林をきりひらいて小屋をたて、掘方人夫をねとまりさせて工事の本部としました。江戸から連れてきた人夫には、川を掘らせました。掘った土を運んで、湖岸のうめたてをする仕事は、村むらの百姓が、毎日に、100人以上も集まって協力しました。
年が若かった権右も、親方の身の回りのせわをしながら、人夫にまじって一人前の仕事をこなしました。
代官さま、庄屋さまはじめ、みんなが力を合わせたので、工事は予定どおり進みました。20丁もある長い川でしたが、2年目の秋には、海岸と湖の堀口を残して、から堀をおわりました。
ところが、最後の水を通すときになって、権右の悲しい事故がおきたのです。
湖岸には3尺ほどのはばで、土が掘り残してありました。これをくずすと、油ヶ淵の水が川を通って海へ流れます。
いよいよ最後のかべをくずしかけたとき、堤防いっぱいになっていた水が、一度のどっと流れ込みました。「わぁ!」という歓声と同時に、「権右、にげろ。」というひめいがおこりました。にげおくれた権右が、どろ水にのみこまれています。人夫の何人かがさおを持って、「権右、このさおにつかまれ!」とさけびつづけましたが、水の流れが速く、権右の体は、2度、3度水面にうかんだきり見えなくなってしまいました。
働き者で、気立てのいい権右の死を悲しんだ人びとは、身よりのない若者のために川を見下ろす右岸のたかみに土をもり自然石をすえ、「権右の墓」として霊をなぐさめました。
はじめて橋がかけられたとき、工事のために命を落とした権右の名にちなんで、権右衛門橋とよびましたが、あまり長いので、はしょって「権右橋」となり、いつのころからか、語呂のよい権衛橋(権江橋)とよぶようになったのです。
参考資料:市民叢書『碧南の民話』